大学院教員の忘備録

いつのまにか大学院教員に。日々の忘備録

はじめにーこれまでの概要ー

 とりあえず、自分のこころを整理してみる(これまでの概要)。同じような境遇の人の参考・心の支えになればありがたい。

 

 大学教員になりたくて国立大学を飛び級して大学院に進んだのだけれども、やっぱりアカデミック・ポストは厳しい。大学院在籍中に(今もだけど)、結婚などを経て私生活でもいろいろあった。

 そもそも、博士論文を提出しようにも出口がないから提出できない状況が続く。アカデミック・キャリアが無理ならどうするのか。と考えてはじめたのが、予備校講師であった。たぶん、研究が少し停滞したのは予備校講師という第二のキャリアを考えた安住の結果だったと思う。

 予備校講師としてまがりなりにも、研究がある程度できて、収入も同世代ぐらい得られるようになると、本格的に予備校講師を生涯の職として考えてしまった。でも、なんとなく残る一抹の不安。それは、(いろいろな人が指摘しているのだけども)予備校講師は人気稼業であり、身分が不安定なのである。つまり、プロ野球選手と一緒で次年度以降は来なくていいですよ。と言われかねない身分なのである。

 いつの頃かわからないけど「自信と不安」が同居した自分には、そのような身分は常に不安でしかなかった(自分なら大丈夫という自信もあったけど)。さらに、自分のキャリアを考えさせられたのは、2015年の11月頃だった。簡単にいうと、子供ができたのだ。博士論文も書いてないのになにやってんだ、と思われるかもしれない。だが、妻の要望(さまざまなリスクを考えて)、家族の期待等を考えて勘案した結果の妊娠であったので、私のなかで納得している(これは今、心に余裕があるからだと思う)。

 ただ、私のなかでの不安。このまま予備校講師で大丈夫なのか。収入面や生涯生活を安定させることができるのかという不安。「職業に貴賎なし」といわれるが、生まれてきた子供に、「予備校講師(フリーランス)」と自信をもって言えるか、という正直な気持ちであった。

 そんなこんなで、キャリア・エージェントを使って1月から本格的に「転職」活動をした。院生での転職は、この年がギリギリらしい。志望職種は、コンサルタント。いくつかの企業で選考を通してもらった。ただ、捨てきれない研究。という持ち前の「葛藤」が続く。

 そういう決められない苛立ちのなかで、一つの公募が出ていた。ある大学の教務ポジションでの募集であった。大学教員のポジションが難しいなら、運営・教務をやって大学経営にシフトしようかな、という漠然とした考えのなかで応募した。そうしたら面接に呼ばれてしまった。大学公募戦士の皆さんならわかるかも(?)しれないが、大学に呼ばれると職種を忘れてとりあえず嬉しいのである。

 それを転職のプロである妻に話したら、「自分の願いが叶わなかったら、行かないんでしょ?なら、自分のやりたいことを面接で言えばいいよ」とアドバイスを受けた。

 ということで、面接で「教務で応募したけど、教員として採用してください。もちろん将来的に大学経営の中核を担います」的なことをいった(これは後述したい)。これは賭けだった。負けても損はないから、賭けとは言わないかもしれないが。

 結果、「あなたみたいな人は、はじめてだから次回もう一度お会いしたい」と言われ一次面接を通過してしまった。このときは、自分の要望が通ったのか、単純に就職したい意思が強い人として伝わったのかわからなかった。

 2次面接にいくと最初は、「何やりたいの?」とか落とし系の柔らかな圧迫面接な感じで、こりゃダメだ。と思った。もうダメだと思ったので、自分の正直な気持ちを包み隠さず述べてしまった(本来ならダメだと思う)。ところが、それが理事長らにヒットしたらしく、アカデミック・ポストとしての採用が決まってしまった。というのも、その大学では教員の公募も同時にしていたらしい。そのへんの話も追々。

 急転直下で決まったので、自分でもあんまり実感がない。ひとつ言えることは、どこかで何かの覚悟をすると強い、ということかもしれない。もう一つは、やっぱり運が大事であることを思い知らされた。

 そんなこんなで、3月から大学経営を担う大学院大学准教授として働くことになった。

 

 とりあえず、自分の記録として、初心を忘れないために書いといた。